MENU

【舞台照明の歴史】あの「塩水調光器」が、実演されたぞ!(+調光器の歴史まとめ)

先日、Twitterでいただいた情報なのですが。

東芝エルティーエンジニアリング (QスポでおなじみのRDSの後継会社です) のウェブサイト上で、「吉井澄雄が語る劇場とあかり」というタイトルで、大御所の吉井澄雄氏(1933-)へのインタビューが掲載されています。

 

正直、このような企画を東芝エルティーさんが始めていたことにも驚きなのですが、吉井澄雄氏に、というところも意義が大きいと思います。
吉井氏は舞台照明界での知名度の割に、単著での書籍等を出版していないので、学術的な文脈 (論文での引用等) で氏の発言や経験を引用したりするのが困難であり、私のような「舞台照明の歴史を学問的にまとめたい」というような変わった趣味を持つ界隈や、たとえば舞台照明×心理学のコラボ実験を画策するときにベテランの経験則を引用したい場合とか、そういう学術方面から見ると非常に勿体なかったのです。

(現場の皆さん、大ベテランの語る経験則や歴史の話は、Web上でよいのでなるべく文章化して残してくださいね……のちに学術方面からの参照が困難、というか学問的には「無かったこと」になってしまいますので……)

で、今回の本題です。
この「劇場とあかり」シリーズの番外編として、「塩水調光器」の実演映像が掲載されています。


水抵抗は、舞台照明の黎明期に調光器として使われたことが文献上明らかですが、さすがに実演した映像は無いため、これは非常に価値のある映像です。
興味のある方は、英語で「salt water dimmer」などでも検索してみてください。いくつか画像が出てくるほか、イギリスでは「piss pot」と呼ばれていた(意味は調べてね)ことなども分かって面白いです。

なお、吉井氏は動画の最後で「これが、僕らが使った戦後最初の調光器であります」と発言していますが、これは「戦前には水抵抗すら存在していなかった」という意味ではなく、若干複雑な文脈がありますので以下に補足しておきます。

目次

水抵抗が最初に使われたのは明治時代

水抵抗は「最初の調光器」のように紹介されることが多いですが、厳密にいえば間違いです。1881年にロンドンのサヴォイ劇場に白熱電球が導入されましたが、この時すでに「鉄線の露出渦状コイル」で調光されたと、「タイムズ」紙に記載があるようです。(遠山上巻p241) この「露出渦状コイル」は不明瞭な記述ですが、コイルのリアクタンスを用いる技術はまだありませんので、単純な金属抵抗式調光器であったと考えられます。
よって、金属抵抗式調光器と水抵抗式調光器は両方とも黎明期から存在し、予算や状況に応じて使い分けられてきたと思われます。

ただし、日本の状況に限って言えば、最初は舞台照明に対する理解が乏しく予算が得られなかったので、明治末期時点で金属抵抗式は帝国劇場など限られた大劇場にしかなく、多くは木樽に塩水を入れた手作りの水抵抗器だったようです。
明治40年(1907年)には、新富座という東京の劇場で水抵抗が使われていたといわれています。(五十年p226)
また、今では豪華照明の極みである宝塚大劇場も、開場当時は照明予算をケチられすぎて、1920年代なのに水抵抗を使わざるを得なかったようです。(五十年p64-65)
saltdimmer
↑水抵抗式調光器。おそらくこれと全く同型のもの(残ってるのがすごい)
画像出典:大庭三郎(1976)『舞台照明』p.47

1930年代には、水抵抗の時代は終わりつつあった

しかし、1930年代以降の技術進歩は目覚ましく、1934年には東京宝塚劇場にオートトランス式調光器(こちらの記事の一番下を見てね)が導入され(このオートトランス式は、21世紀になってもごく僅かな劇場で現存していることが確認されています。)、1937年には現在のサイリスタ調光器の1歩手前と言えるサイラトロン-リアクトル式の調光器が試作されるなど、この時点では欧米に負けない技術力だったようです。
CCF20151206_00006
↑オートトランスの調光操作盤(名古屋御園座?)

しかし、戦争が……

でも、皆さんお察しの通り戦争です。
戦時中は、大劇場が風船爆弾の製造拠点になってしまったりして、劇場で開催される娯楽自体、自粛するムードでした。
その代わりに、宝塚や松竹では移動演劇隊を結成して、地方の巡業公演を行うことになります。

同時に、地方の住民・労働者が自らの娯楽として「素人演劇」をする流れも出てきました(素人演劇運動)。演劇は協同・集団生活的な営みを伴いますから、そういう意味では国としても「健全な娯楽」と認めるものだったのでしょう。

このような「地方巡業」「素人演劇運動」の文脈で再注目されたのが、水抵抗 (塩水調光器) なのです。

調光器も何もない非劇場空間でも、桶と塩水さえあれば調光できる。
これほど、巡業公演に適した調光器も無いでしょう。今だったら、DP-415DX-402A なんかが活躍するシチュエーションですよね。
実際に、大日本産業報国会(1942)『職場の演劇 第2輯 素人演劇の方法(上)』には、照明家・篠木佐夫氏が書いた照明の解説も載っているのですが、そこで紹介されているのは桶に水を入れた原始的な水抵抗器です。
saltwater2
↑『素人演劇の方法』p.50に出てくる水抵抗

で、戦後もしばらく巡業には水抵抗が使われたのでしょう

このような文脈を踏まえれば、動画の中で吉井氏が「(水抵抗は)戦後初めて使った調光器」と言ったのも理解できるでしょう。
戦時中にこのような技術が培われているうえに、戦後しばらく、それこそディムパックが登場する1960年代後半までは、学校の体育館などにはまともな調光器が存在しなかったことが容易に想像できます。
そのような状況では、戦後といえども水抵抗という選択はとても合理的だったのです。

 

本文中に「遠山上巻」などの形で省略した出典は以下の通りです。
遠山上巻:遠山静雄(1988)『舞台照明学』上巻
五十年:遠山静雄(1966)『舞台照明五十年』

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

高校演劇~大学の学生劇団で照明を経験し、現在は会社員の傍らアマチュアで舞台照明を継続。第39回日本照明家協会賞舞台部門新人賞。非劇場空間の劇場化、舞台照明の歴史が得意。

コメント

コメントする

目次